隠岐へ(2017.07)~その1

先日、2年ぶりに隠岐へ行ってきた。
たぬきが、隠岐に行ったのには訳があった。
その訳については、機会があったらブログに書くことにしよう。

ともかく、そんな訳で「北海道シリーズ」は、暫くお休みしたい。
今回も隠岐は、島前といわれる3島を巡ることにした。
島前とは、知夫里島・中ノ島・西ノ島の三つの島のこと。
以前にも書いたと思うのだが、これら三つの島が火山の外輪山のように、内海を囲んでいる。

        kankoannaizu[1]

左下が、「島前」といわれる島々。

朝のフェリーに乗って、約3時間。
中ノ島(海士町)の菱浦港に到着。
13時20分出港の「海中展望船あまんぼう」に乗船。

        IMG_7675.jpg

        IMG_7679.jpg

あまんぼうでは、ガイドさんに丁寧に案内してもらった。

        IMG_7688.jpg

鴨島灯台の脇を通り、東方(島後方向)に向かい。
「三郎島」の周辺の海域で水中の観察をする。

        IMG_7693.jpg

見事な形をした島が、大中小と並んでそそり立っている。
当然、大きな島から太郎・次郎・三郎と名前がついている。
島の側まで来ると、ガイドさんの案内で、船底に降りる。

        IMG_7697.jpg

思い思いの場所で、ガラス張りの窓から海底を見ることができる。

        IMG_7708.jpg

        IMG_7712.jpg

30分位だっただろうか。
透明度の高い海中の魚を観察し、一時を満喫した、たぬきじゃった。

        IMG_7719.jpg

        IMG_7721.jpg

帰路に向かっている時、島後方面からやって来た「超高速船レインボージェット」に遭遇。       
たぬきの今回の旅行の最終日には、このレインボージェットに乗船して帰ることにしている。



北海道(No.15)

チュウルイ島のマリモ展示観察センターへは、下の写真のような観光船で行った。

        IMG_7191.jpg

なんともメルヘンチックな船だ。

マリモ展示観察センターへは、こんな道を歩いて行く。

        IMG_7171.jpg

未知の周囲には、珍しい植物等がある。

センターの中に入ると、マリモの水槽が並んでいる。
目を引くような大きなマリモが展示してある。

        IMG_7173.jpg

        IMG_7174.jpg

        IMG_7177.jpg

        IMG_7176.jpg

        IMG_7178.jpg

マリモ(毬藻、学名:Aegagropila linnaei)は、球状集合体を作ることで知られている淡水性の緑藻の一種である。
特に阿寒湖に生育するマリモは、美しい球状体を作るため日本の特別天然記念物に指定されている。

マリモは球状の集合体を形成するが、球状体一つがマリモの一個体単位というわけではなく、この球状体を構成する細い繊維(糸状体と呼ぶ)がマリモの個体としての単位である。
よく目にする球状の「マリモ」は、生物学的にはマリモの“集合体”である。
多くの生息地では、マリモは糸状体の形態で暮らし、球状の集合体を作らない。
見た目は柔らかそうであるが実際には硬い藻であり、手で触れるとチクチクとした感触がある。

日本では1897年に札幌農学校(現北海道大学)の川上瀧彌が阿寒湖の尻駒別湾で発見し、その形から「マリモ(毬藻)」という和名をつけた。
なおカール・フォン・リンネがスウェーデンのダンネモーラ湖からマリモを採取し学名をつけたのは1753年である。

日本ではマリモの生育が確認されている湖沼は以下のとおりである。
北海道:阿寒湖・釧路湿原内の中小湖沼(シラルトロ湖・塘路湖・達古武沼)・チミケップ湖
青森県:左京沼・田面木沼・市柳沼・姉沼・内沼・小川原湖
秋田県:獅子ヶ鼻湿原(にかほ市象潟)天然記念物に指定されている鳥海マリモ。直径1m以上もある世界最大のマリモもある。
山梨県:山中湖・河口湖・西湖・精進湖・本栖湖(いずれもフジマリモ)
滋賀県:琵琶湖
富山県:タテヤママリモ

このうちマリモが大きな球状の集合体を形成するのは阿寒湖と小川原湖だけである。
また、富山県で発見されたタテヤママリモは、かつてはマリモと同一種とされ、誰かの放流説などが疑われていたが、DNA分析の結果、違う種であることが確認された。
全国各地に散発的に分布している。

阿寒湖のマリモは最大30cm程度と大きくビロード状の球状形態や希少性から1952年に国の特別天然記念物に指定された。
また、近年各地で個体数が減少しており、種として環境省のレッドリストで絶滅危惧種で掲載されている。
また、阿寒湖のマリモは直径30cm程度まで生長するが、太陽光の届かない中心部は糸状体が枯れて空洞になっているため、大きさを支えきれずに壊れてしまう。
だがその後は小さいマリモとなり、再び成長を続けていく。
なお3月29日は阿寒湖のマリモが天然記念物に指定された日であり、この日はマリモの日とされている。
          By ウィキペディア    


マリモ展示観察センターについては、下をクリックして見てほしい。

          マリモ展示観察センター

マリモの魅力に取りつかれた、たぬきじゃった。



常例法座(2017.07.16)

今日は7月の常例法座。
午前10時から本堂で執り行われた。
最初は、
 拝読浄土真宗のみ教えから「浄土真宗の救いのよろこび」を唱和。
次に
 勤行「しんじんのうた(正信偈意訳)」を読誦。
そして、
 「浄土真宗の生活信条」の唱和。

        IMG_7656.jpg

住職の法話は、
 今月のことば 法語カレンダーから
  「功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」
から。

        IMG_7660.jpg

暑い日が続く中で、家にいて感じるのは、時折吹く風に涼しさを感じる。
エアコンのある部屋の中にいると、このような暑い中の涼風を感じることは無い。

先日も京都や四国の丸亀に会議に行ったが、会議に参加する中で、田舎では限界集落や過疎の問題をどうするかという話。
一方、都会地では、お寺の周りにマンションが立ち並ぶが、そういったマンションなどにおみのりをどう届けていくか。
お寺として、双方でどのような発信をしていくのかと話した。
このような問題の中で多くのことを考えていかなければならない。

過去帳や法名を持ちたくないという人。
自分は、無宗教だという人。(外国人は、違和感を感じているのだが・・・)
門前の今月の法語にも書いたのだが、「まさかの坂」の時には、自分の拠り所がないままどうされるのだろうか。

今月のことば 法語カレンダー の説明をされ、法話は終わり、いつものように、お茶をよばれながら、茶話会があった。
雑談の中では、
 〇 親族だが、名字の違うものを一緒のお墓に入れていいか。
 〇 他宗派にあった時に亡くなった方を同じ過去帳に他宗派でつけてもらった戒名を載せてもいいのか。
などの活発な質問があった。

最後に、「恩徳讃」を斉唱して、常例法座は終わった。



住職ノート
7月後半の法語です。

        IMG_7646.jpg



北海道(No.14)

阿寒湖畔のホテルで一夜を過ごした、たぬきは、観光船に乗って阿寒湖の観光に出る。
この日は、小雨模様で気温も低い。
大雨にならないことを祈りながらの船出だった。
湖は穏やかで、肌寒いのを別にすれば、まあまあというところだ。

        IMG_7128.jpg

        IMG_7133.jpg

        IMG_7132.jpg

観光船乗り場は、ホテルのすぐ側にあり、「幸運の森桟橋」という名前がついている。
出港すると、宿泊したホテルも見える。

阿寒湖(あかんこ)は北海道東部、釧路市にある湖である。
全域が阿寒国立公園に含まれ、道東を代表する観光地となっている。
北海道で5番目に大きい淡水湖。

特別天然記念物のマリモや、ベニザケの湖沼残留型(陸封型)であるヒメマスが生息する。
冬は全面結氷し、ワカサギ釣り、スケート、スノーモービルなどのウィンタースポーツが盛んで、阿寒湖氷上フェスティバル・冬華火などのイベントも開催される。
周囲はエゾマツ・トドマツなどの亜高山帯針葉樹林、および広葉樹を交えた針広混交林の深い森に覆われている。

2005年11月、ラムサール条約登録湿地となった。

雄阿寒岳の西にあり、山の北にあるパンケトー、東にあるペンケトーとともに雄阿寒岳の裾野を三方から円形に囲む地勢である。
雄阿寒岳と対をなす雌阿寒岳は、阿寒湖の南西約9キロメートルのところにある。
カルデラ湖としては傾斜も深さも穏やかである。
島:大島、小島、チュウルイ島、ヤイタイ島の4つ。
チュウルイ島にマリモ展示観察センターがある。
          By ウィキペディア     


        IMG_7143.jpg

        IMG_7145.jpg

        IMG_7147.jpg

        IMG_7150.jpg

        IMG_7155.jpg

        IMG_7157.jpg

        IMG_7160.jpg

        IMG_7163.jpg

        IMG_7165.jpg

阿寒湖を半周したところに、目的地であるマリモが展示してある「チュウルイ島」がある。

        IMG_7169.jpg

チュウルイ島のマリモ展示観察センターについての記事は、次の機会にしよう。



住職ノート
7月常例法座のご案内
梅雨末期の大雨。
心配が続きます。
あたり前のことが、実はそうでなかったと思い知らされた私たちです。
自分の考えはどうなのか、色々な場面で考えたいものです。
あちこちに還付金詐欺の電話がかかったと聞きました。
ご注意を                       合掌

 〇 日時 7月16日(日)午前10時~
 〇 内容 功徳の宝海みちみちて
         煩悩の濁水へだてなし

夏休み一泊子ども会
 〇 8月21日(月)~8月22日(火)
    詳細は、またご案内します。


平塚の七夕

たぬきは、全国規模の総会があり、先週の土曜日(7月8日)から神奈川県の平塚市を訪れていた。
平塚市では、7月7日から7月9日にかけて「七夕祭り」が開催されていた。
平塚の七夕祭りは、有名な仙台の七夕祭りにも引けを取らないくらい規模の大きな祭りだと聞いていた。
恥ずかしながら、今までたぬきは、七夕祭りを見たことがない。
そんなたぬきだったのだが、一目見て驚いた。

        IMG_7548.jpg

        IMG_7556.jpg

        IMG_7562.jpg

        IMG_7559.jpg

すごい迫力だ。
また、見物客の多さにもびっくりした。

今回の会議は、全国から集まる会議の参加者に見てもらいたいという思いもあって、この日に開催されたという。
確かに、こんな機会でもない限り、見ることはできないだろう。
山陰では雨模様だったようだが、平塚はうだるような暑さだった。

        IMG_7567.png

熱中症を心配しながら、会議会場のホテルへ向かった、たぬきじゃった。

湘南ひらつか七夕まつり(しょうなんひらつかたなばたまつり)は神奈川県平塚市で行われる七夕の祭りである。
関東三大七夕祭りの一つ。

第二次世界大戦中、平塚市には海軍火薬廠があったため、1945年7月の空襲で焼野原となり、終戦後の1950年7月に復興まつりが開催された。
その後、平塚商工会議所、および、平塚市商店街連合会が中心となり、仙台市の仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が1951年7月に行われた。
1952年と1953年には「平塚七夕音頭」が発表された。
回数を重ねるごとに規模が拡大していき、1957年の第7回平塚七夕まつりからは、当時の市長である戸川貞雄の方針により平塚市の主催となった。

1973年の第23回平塚七夕まつりでは、駅ビル建設問題などの諸問題から平塚市がいったん開催中止を宣言した。
しかし、「伝統の火を消すな」と有志が立ち上がり、商工会議所が開催している。
1993年の第43回から現在の「湘南ひらつか七夕まつり」との名称となった。
平塚駅周辺の都市整備により、2005年より開催期間が5日から4日に縮小された。
更に2011年以降は東日本大震災の影響等による安全対策優先のため開催期間が3日間となり、主催が湘南ひらつか七夕まつり実行委員会となっている。
なお、七夕まつり実行委員会は平塚市と平塚商工会議所が合同で組織している。
          By ウィキペディア        




災害に思う

九州では、豪雨の影響で多くの被害が出ている。
被災された方たちには、心からお見舞い申し上げます。

最初は、島根県西部地方に「大雨特別警報」が発令された。
この時点でたぬきは、昭和58年7月のあの悪夢のような「島根県西部の豪雨災害」を思い出した。
死者103名、行方不明者4名など、被災の規模は想像を絶するものだった。

昭和58年7月豪雨(しょうわ58ねん7がつ ごうう)は、1983年(昭和58年)7月に発生した水害(豪雨災害)である。
激甚災害指定。
気象庁は7月20日から23日までの大雨にこの名前を命名した。

20日から始まった大雨は23日未明からピークとなり中国地方西部で豪雨災害が発生、特に浜田市・三隅町(現浜田市)・益田市と県西部で被害が集中した。
最大1時間降水量は浜田市23日0時40分から1時40分で91mm、益田市23日6時から7時で90mm。
20日0時から23日24時までの4日期間降水量は日本海側ではなく中国山地沿いが多く、軒並み500mmを超えている。

島根県では、この豪雨の11年前である1972年昭和47年7月豪雨で県災害史上最大級の被害にあっているが、県西部に限れば、総降水量は昭和47年豪雨の方が多かったが1時間降水量はこの昭和58年豪雨の方が多かったこと、更に降水が集中したのが昭和47年豪雨では昼過ぎでこの昭和58年豪雨が夜から朝であったことから、県西部にとっては昭和58年豪雨が戦後最大規模の洪水災害となった。

この地は中国山地の北側にあり、そのほとんどが丘陵地で日本海沿岸まで丘陵が迫っている。
そこへ江の川・高津川の一級河川や中小河川が山地率9割つまり狭い谷をぬって流れ、河口部は沖積平野を形成している。
こうした地形から、インフラストラクチャーの多大な被害によって分断され陸の孤島と化した場所が点在し、救護活動に海路をも頼ることになった。
          By ウィキペディア   


また、同じような災害が島根県に襲いかかって来るのか・・・
そうするうちに、梅雨前線が南下し、九州地方が大雨となり、この地方に大雨特別警報が発令された。
島根県と同じように、特別警報が杞憂に過ぎればと思っていたのだが、大きな災害をもたらせた。

昨夜も心配して、九州各地の友人宅に電話をした。
幸いにも被災されたところはなかった。
しかし、たぬきの知人・友人には被害がなかったとは言え、多くの方が被災されたことを思えば、よかったでは済まされない。

災害がある度に、考えさせられることなのだが・・・

        IMG_7536.jpg



住職ノート
7月前半の法語です。

        IMG_7541.jpg



北海道(No.13)

摩周湖からこの日の宿泊場所へ向かう。
宿泊先は、阿寒湖の湖畔にある「あかん湖 鶴雅ウィングス」。

リゾートホテルとあって、規模も大きく、浴場等も相当凝っている。
当日は、ホテル到着時が日没後だったので、ホテル入口等の写真は撮らなかった。
翌朝、撮影した写真は下のとおり。

        IMG_7118.jpg

        IMG_7119.jpg

また、部屋からの眺めも最高だった。

        IMG_7116.jpg

ホテルのロビーには、木彫の作品があり、北海道に来たなあと思える作品だった。

        IMG_7123.jpg

        IMG_7124.jpg

        IMG_7125.jpg

        IMG_7126.jpg

        IMG_7127.jpg

後は、ホテルの公式ホームページを見てもらえば分かると思う。

          鶴雅ウィングス

宿泊した夜には、アイヌ民族のショーを観賞した。
しかし、残念ながら写真撮影等が禁止されていて、紹介することができない。

        IMG_7112.jpg

        IMG_7113.jpg

これは、ショー終了後の出演者の皆さんが見送りをしている時の状況。

また、ホテルから会場までは、道路の両側にアイヌ民族特有の民芸品を販売している店が並んでいる。

        IMG_7105.jpg

        IMG_7106.jpg

        IMG_7108.jpg

アイヌについて
アイヌは、北海道・樺太・千島列島およびロシア・カムチャツカ半島南部にまたがる地域に居住していた。
母語はアイヌ語。
現在、日本とロシアに居住する。

1878年(明治11年)、
アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。
文字を持たない民族であったが、生業の毛皮や海産物などをもって、現在のロシアのハバロフスク地方アムール川下流域や沿海州そしてカムチャツカ半島、これらの地域と交易を行い、永く、このオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた。

1855年2月7日(安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下、各々の領土が確定した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。
21世紀初頭の現在、日本国内では、北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。


歴史        
人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化と本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。
本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる。
擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている。
13~14世紀になると、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われた。

またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。
1457年には大和民族アイヌ間でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した。
蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥鮭・ニシン・獣皮・鷹の羽(矢羽の原料)・海草や清からアイヌに伝わった衣服(蝦夷錦)などを輸入し、鉄製品・漆器・米・木綿などで支払っていたが、1669年のシャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった。
江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄地とした。

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、大和民族人口が増加した。
アイヌ人は「平民」として戸籍制度の中に組み入れられるが、「土人」とも呼ばれ、宗教儀礼や入墨、耳環などアイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。

同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた。
地租改正により大和民族に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされ、アイヌの伝統な生業である狩猟、漁撈も制限される過程で、生活も困窮の道をたどる。
政府は勧農政策を実施し、北海道旧土人保護法では土地の無償下付や農具の給付など優遇制度を実施したが、既に和人がいい土地(この土地ももともとはアイヌのもの)を取得してしまったあとで与えられた土地は農地に適していなかったり、十分農業指導が行われなかったりで、アイヌの人々の生活改善には効果がなかった。
          By ウィキペディア     
  

ここにも書かれているように、アイヌ民族は虐げられ、あるいは蔑まれて苦しい生活を送ってきたことが伺われる。
本土に住んでいるたぬきたちには、思いも及ばぬものだっただろう。
歴史の中にある悲劇に思いを致すとき、もう一度「誰にも平等に扱われる権利」があることを再認識したいと思うたぬきじゃ。
      


QRコード作成
写真・画像のWEB加工