家族の絆

このことは、随分前にもこのブログで書いたことがある。
もう一度、家族というものを考えてみよう。

家族は、誰にとっても一番大事な存在だろう。
また、家族は一人ひとりの結びつきも非常に強い。
加えて、日々の生活も共に送っている。
だから、「かけがえのない」という感情を生み、家族みんなが健康で幸せな家庭を築きたいと思うのではないだろうか。
家庭には、「消費生活を支える場」、「子どもを生み育てる教育の場」、「休息、安らぎを得る場」など、さまざまな場があるが、いずれも家族みんなの繁栄と幸福のために、家族全員がそれぞれ役割分担をしているところに、その特徴がある。
だから、家族というものの意義と共に過ごすことの喜びがあるのではないだろうか。

核家族化が進み、家族の果たす役割も変化している。
そのことを思うと、家族が一緒に過ごす機会を増やし、家族間のコミュニケーションを深めていくことも重要だ。
家族であるが故に、あまりに身近か過ぎて、感謝の気持ちを忘れがちでもある。
「母の日」や「父の日」に、少しだけでも感謝の気持ちを表してはどうだろうか。

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住職ノート
田んぼからカエルの声が、けたたましくなってきました。
農家の方がたは、水溜、耕し、また水溜、田植えと、米の字のごとく八十八の手間ひまかけて、私の口にもたらして下さるのです。
勿体ないことです。
有難いことです。

今月後半の掲示は
 「いくら長生きしても 幸せのど真ん中にいても お陰様が見えなけりゃ 一生不幸」
としました。

数年前にお邪魔したお寺の奥さんに教わった言葉です。
本当にそう思います。
みんな、みんな、お育てで今日あるのを悦べば、一つ一つがどんなに素晴らしいことか。

足元を見て明日も過ごしていきましょう。
驕る(おごる)こともないのです。
喜怒哀楽の人生に、合掌の姿を大切に。


心こもる贈り物

人の心は、大切にしたいものだ。
先月、たぬきの若き友人が人事異動で旅立たれた。
たぬきの仕事の関係で知り合ったのだが、1年と数か月しかお付き合いもしていなかった。
しかし、お互いに意気投合して、2~3か月ごとの飲み会や、隠岐旅行も2回一緒に行ったりした。
年齢は、たぬきとは親子ほどではないにしろ、それとあまり変わらない。
そんななかで、随分親しくしていただいた。
将来、日本の国を背負って立つのだろう、というのが、彼への印象だった。
そんな人と知り合えたことは元より、いつも真摯に対応していただいたことが嬉しかった。
短い間だったが、大きなパイプのようなお付き合いができた。
そんな彼との別れは辛いものがあったが、たぬきも数年前までは転勤族。
また、会える日を楽しみにお別れの挨拶を交わした。

そんな彼から今日、贈り物が届いた。
有名な「湘南マドレーヌ」

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家族みんなで、美味しくいただいた。
そして、彼との再会を果たそうと思った、たぬきじゃった。



住職ノート
9月後半の法語です。

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心暖まる思い

今日は、「墓苑清掃」と「墓苑総会」が予定されていたが中止になった。
それは、台風11号の影響を心配した、住職の思いだった。
幸いと言っていいかどうか分からないが、松江市付近を台風が直撃したものの、大きな被害もなかった。
台風の通過した東側にある近畿以東や四国では、大きな被害もあったようだ。
心からお見舞い申し上げたい。

夕方、たぬきは西宗寺の墓苑へ行った。
それは、8月のお盆を前に、墓地の清掃をしようと思ったからだ。
いつものように、山門の前で7月後半の法語を撮影。

そうしていたら、見かけない車が墓苑の駐車場の方に走って行った。
運転手は、どうみても20代前半の男性だ。
墓苑の駐車場でUターンでもするのだろうか。
そう思いながら、たぬきもその車の後をついて駐車場に行った。

その若い男性は、車から降りて墓苑内のお墓の前で、線香を手向けていた。
彼の人生に何があったのかは分からないが、たった一人で墓参をする彼の姿を見て、心が暖まる思いがした。
また、たぬきは、手を合わせる彼の姿を見て嬉しくもあった。
西宗寺の墓苑だから、お寺の門徒さんのお墓には違いないのだが・・・

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住職ノート
台風の直撃を受けず何とかわが家は無事でしたが、全国でたくさんの方々が災害に合われた姿を見るにつけ、改めて恐怖を感ずることです。

16日は常例法座、15人の方々と「お浄土とは?」と話し合ったことです。
日頃の生活の中で、なぜに浄土を、この人間様に与えてくださったのでしょう。

先日の新聞に「日本の仏教、民衆の中にあるか」と記されていました。
「仏教本来の使命は、人を救うこと。寺の運営のことばかり考えているようにみえます」と。
わが姿は・・・・・。

今月後半の標語は
 「いざとなると 人間はよわいからねえ 人間の私」
としました。

ダメ人間の代表。
それが自分。
徹底した自己否定。
それが煩悩具足の凡夫でしょう か。

その中でしっかりとつつまれている私。
そこに自己肯定が生まれてくるのでは。
強が り言わず、無理をしないで、怠けない。
私は弱い人間だから。

今日の墓苑清掃は台風のため中止にしました。
でも、それぞれの家族でお参りされて いる方がありました。
麗しい光景です。

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機会が人を見捨てるよりも・・・

人生は、色々・・・
この前の日曜日、たぬきが以前勤めていた職場のOB会があった。
第二就職をした人や第三就職をしている人。
職を引いて何もしてない人。

それぞれの人生を歩んでおられる。
先輩方の後姿を見ながら、たぬきなりに色々なことを思う。
たった一度の人生、思う存分生きていけばいいのじゃないだろうか。
そんなことを考えていたら、フランスの諺を思い出した。

「機会が人を見捨てるより、人が機会を見捨てる方が多い」

人生には、いろんな機会がある。
少しだけ前を向いてみれば、その機会を自分のものに出来ただろうに・・・ということは、よくあることかもしれない。

機会というのは、色々な場面で遭遇するものだろう。
たぬきが受講してきた「中央仏教学院の通信教育専修課程」も、たぬきにとっては人生における大きな機会だったと思う。
その機会に恵まれたからこそ、少しでもこの先の人生を考えることができる。
卒業できるかどうかは別にして、こういった機会を与えていただいた住職に感謝したい。

この機会が、自らの人生の大きな転機になったようだ。

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償い

「償い」という歌がある。
ご存知の人も多いかもしれないが、さだまさし作詞・作曲。
この歌について、たぬきが講釈をたれるより、ウィキペデイアを紹介した方が分かりやすいと思う。

「償い」(つぐない)は、1982年に発表されたシンガーソングライター・さだまさしの曲。
アルバム『夢の轍』の収録曲の一つで、知人の実話を元につくられた。
作詩・作曲さだまさし、編曲渡辺俊幸。

実際の裁判で引用され話題となり、命の尊さ、犯した罪への償いを考えさせるため、運転免許更新の際の放映ビデオ内で使われているほか、交通キャンペーンにも使用されている。
その際、曲中の加害者の犯した過ちである「過労運転等」が比較的重い罪(「無免許運転」や「酒気帯び運転」の重いほうと同じ25点)であることがあわせて説明される場合もある。

この楽曲は、知人の実話を元に作られたものである。
ただし曲中では、優しく真面目な心の持ち主である交通事故の加害者「ゆうちゃん」をメインに、それを見守る同僚の気持ちを歌詞にした物になっているが、実際にはさだの知人である被害者の妻の体験と事実を元に詩が作られている(さだは、「ゆうちゃん」に該当する加害者とは会ってはいない)。

さだの知人の女性が交通事故で伴侶を亡くした。
加害者の男性は真面目な人らしく、毎月わずかずつではあるが賠償金を郵送してきていた。
彼女は加害者の手書きの文字を見るたびに、事故の事や亡き主人を思い出しては辛い思いをしていた。事故から数年経ってもその送金は続き、知人は茶道の師範として経済的にも自立できていることから、「もうお金は送ってくれなくて結構です」と加害者に対して返事の手紙を書いた。
しかし、被害者の許しの手紙を受け取ったはずの加害者は、償い続けるために翌月以降も送金を続けた。


このような内容の歌だ。
悲惨な交通事故を起こした加害者も、その事故の被害者家族も大きな心の痛みを抱く。
切々と歌い上げられる曲に耳を傾けると、思わず目頭が熱くなるのはたぬきだけではないだろう。
日本中のどこかで、毎日、交通死亡事故が発生している。
昨年の警察庁の統計では、最も交通死亡事故の少ない日でも1日3人の方が亡くなっているようだ。
ちょっとした不注意から尊い命が失われる。
この現実を今一度感じてほしい。
いや、たぬき自身も心して運転しなければならないと思う。

ハンドルを持つ人は元より、そうでない人にも聞いてほしい歌だ。
決して他人ごとではないと感じるはずだから・・・

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ふるさとは・・・

「ふるさと」を想う。
秋になるとたぬきは、遠い記憶の中で「ふるさと」を想う。
たぬきのふるさとは、一体どこだろうか?
一般的に考えると生まれたところが、ふるさとなのだろう。
ところが、幼少のころの記憶が余りないとすると、果たしてそこが「ふるさと」と言えるのだろうか。
たぬきの人生は、子供のころから転々と引っ越しをした。
就職してからも1年から2年で転勤していた。
どこが、本当のふるさとなのだろうか。

室生犀星は、こんな詩を書いている。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや


この詩の評価は、色々な人が書いているので、敢えてたぬきは評論はしない。
ただ、何となく寂しい詩である。

この世の「ふるさと」は、そうであるかもしれないが、死して行く「ふるさと」がある。
だから、ふるさとはすぐそばにあると思えるのだ。

今夜は、「ふるさと」を考えるいい機会だったようだ。

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住職ノート
台風一過、急に炬燵がほしくなってきました。
タイの留学生を風邪ひかせてはと心 配です。

今月に入り市内のお寺から、親鸞聖人の報恩講の案内が舞い込んできています。
私も今までに2カ寺のご法話にご縁を持たせていただきました。
それぞれのお寺が、混と んとした時代に、懸命に努力されている姿に、私自身が教えられます。

今月の標語は
 「私が無駄に過ごした一日は 昨日亡くなった人が痛切に生きたいと願った一日」
と厳しい言葉にしました。
病を抱えながら、老いを見つめながら、真剣に生きている人を間近かにして自分の在り様を考えたかったからです。
1日たりとも無駄にできない今日1日です。


無為

「無為に過ごしてはならない」
と思いつつも、ついつい一日を無駄に過ごしているようだ。
これは、たぬきの反省・・・

人間は・・・
ではなく、
たぬきは、どうして安きに流されてしまうのだろうか?
「明日もあれば、明後日もある」という思いが、その根底にあるようだ。
本当は、御文章にもあるように「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。・・・」なのに。

今日を生きること。
いや、今を大事にしたいものだ。

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住職ノート
敬老の日を含め、3連休の人も多かったことでしょう。
レジャーや、旅行で楽しんだ方もいる中で、農家の方は家族総出で、稲刈りに、そして新米出荷に、忙しい方もおられます。
一昨日、昨日と、早速取れたての新米を、お仏飯米としてお供えになりました。
誠に有り難いことです。
自分たちが戴く前に、仏様に先ずお供えしてからと、作業着の姿で持ってこられました。
現代社会に忘れられている姿を、教えられることです。

昨日は敬老の日。
少子高齢化社会といわれる中で、皆さんは、どのように、家族の、周囲の年配の方と接していますか。
みんなが同じように、老いていく姿になっていくのですよね。
今皆さんが接している姿が孫、子に伝わるのです。
その生き方が問われているようです。

お彼岸が近づいてきました。
浄土真宗では、讃仏会ともいいます。
一日一日が恵みの中で生かされて居ながら、それをそれとも思わず、仏恩を忘れた日暮らしをしている私が、仏縁に遇い、わが身を気づかさせていただく大切な法縁の時です。
今月末の標語は
  「秋彼岸 しみじみ 思う 身の愚か」
としました。
共々に手を合わせてみましょう。


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