薩摩(その6)

今回、鹿児島に来たのは、鹿児島別院に是非行ってみたかったことと、浄土真宗が隠れキリシタンと同じように島津藩から迫害を受けた歴史を知るためだった。

まず始めに、迫害の歴史を訪ねてみよう。

隠れ念仏(かくれねんぶつ)は、権力から禁止された浄土真宗(一向宗)の信仰を、権力の目から逃れて信仰すること、或いはそれを行う者や集団を指す。

南九州の旧薩摩藩や旧人吉藩では、三百年にわたり浄土真宗が弾圧されたため、これらの信仰形態の名残が見られる。

また、神道と習合してカヤカベ教のような秘密宗教も派生したが、基本的には本願寺教団に属し、浄土真宗の主流の教えを守る者をいう。
東北の隠し念仏は別物と考えられる。

浄土真宗禁制に乗り出したのは人吉藩(相良氏)の方が早く、弘治元年(1555年)に遡る。
この年、相良晴広は分国法「相良氏法度」に、一向宗(浄土真宗)の禁止を追加した。
その要因はいまだ明確ではないものの「人吉市史」によると、大永6年(1526年)7月に真幸院(現・宮崎県えびの市及び小林市)を治めていた北原氏の人吉城攻めに原因があるのではないかとしている。
北原氏はこの年、相良氏の内訌に乗じて人吉城に攻め入ったのであるが、その際に一向宗伝道の根拠寺である清明寺(人吉市七字町)と関係しており、禁令に至った要因にそれがあるのではないかと記述している。

薩摩藩は慶長2年(1597年)である。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたのが原因と考えられる。
また、島津家による公式の禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されている。
これは慶長4年(1599年)日向国において庄内の乱が勃発、この首謀者である伊集院忠真の父・忠棟が熱心な一向宗徒という説があり、乱後に改めて正式に一向宗が禁止されたのはこのことが大いに影響しているものという説がある。

薩摩藩では「石抱き」という拷問が行われた。
三角の割木を並べた上に容疑者を正座させ、幅30cm、長さ1m、厚さ10cm余、重さにして30kgの平たい石をひざの上に一枚ずつ重ね、体を前後に揺さぶる。
石が5枚ぐらいになると足の骨は砕け絶命することもあったという。
この拷問は一向宗信徒のほかにはキリシタンと主殺しのみに適用されたものである。

また滝壷に信者を投げ込み、浮き上がってくると竹竿でつついて沈め最後には溺死させるような刑罰も行われた。

以後両藩に於いては約300年にわたり禁制が続けられた。

熊本県人吉市瓦屋町には「与内山の首塚」が残っている。
浄土真宗の講のオルガナイザーだった伝助という人物の首塚と伝えられる。
伝助は地元から京都の本願寺に志納金を納めに行く途中裏切りに会い捕らえられ、打ち首獄門に処せられた。
伝助の愛弟子であった秋山和七郎がその首を盗み出し、自分の地所に埋葬したのがこの首塚であると伝えられる。

薩摩では明治元年(1868年)、廃仏毀釈が行われる。
それは徹底的なもので寺という寺が破壊され、神社に変えられた。
その結果、真宗以外の仏教各派も著しく勢力を後退させた。
明治9年(1876年)には真宗禁制がとかれるが、西南戦争が始まったため事実上の解禁はその後になった。
旧人吉藩の実情も同様であった。

実質的な真宗解禁後、仏教空白地域とでも言うべき状態となった旧薩摩藩地域において、浄土真宗本願寺派は猛烈な布教を行い、結果、鹿児島県は維新前とは一変し、かえって浄土真宗一色になった。
しかし、解禁後も新しく出来た本山主導の寺と隠れ念仏のネットワークの間にはさまざまな軋轢があったという。

浄土真宗は蓮如以来、「講」と呼ばれる組織のネットワークを持っていた。
三百年間、「隠れ念仏」の信仰が地下で続けられた背景にはこの講の組織があった。
講は「番役」というリーダーを中心に、身分の区別なく組織され、「取次役」を通じて本山の本願寺と繋がっていた。

浄土真宗門徒はこのような講の組織を背景に、山中の洞穴などで法座といわれる集会を開いた。
このような洞穴は戦後になって隠れ念仏洞と呼ばれるようになった。
また抜け参りといって、藩境を超えて信仰の許されている藩の真宗寺院に参詣することも行われた。
熊本県水俣市にある浄土真宗本願寺派源光寺には、薩摩部屋というものが残されている。
これは薩摩から密出国した一向宗門徒が、世間の目に触れないように身を隠した場所なのであるという。

隠れキリシタンが「マリア観音」などの信仰の偽装を行ったことは知られているが、隠れ念仏もさまざまな偽装をほどこして信仰を守った。
浄土真宗の信仰の証拠となる阿弥陀如来立像や、親鸞聖人の御影(肖像)、六字名号(南無阿弥陀仏)などは隠して守らなくてはならなかった。
その偽装には傘の形の桐材の容器に親鸞の御影の掛け軸を収めた傘仏やまな板に似せた蓋つきの薄い木箱に本尊の掛け軸を納めたまな板仏などがあった。

川辺地方では、見かけは箪笥で扉を開くと金色さんぜんとした隠し仏壇が作られた(東本願寺鹿児島別院に保存)。
鹿児島では洞窟のことをガマと言い、今でも川辺仏壇のガマ型にはその「隠し仏壇」の要素が色濃く残っていると言われる。 

またいわゆるカヤカベ教のように、弾圧の中で本願寺とのつながりを絶ち、神道や修験道と習合して独自の道を歩む門徒もいた。

南九州の一向宗門徒は北陸の門徒のように「一揆」という形での抵抗は行わなかった。
その代わり、土地を捨てて集団で逃げる「逃散(ちょうさん)」あるいは「欠落(かけおち)」ということが行われた。
逃散は各地で単に生活苦から逃れるためにも行われたが、薩摩では念仏信仰を守るために念仏信仰が許されている隣接諸藩に逃亡する目的であった。
寛政10年(1798年)には2800人の男女が薩摩藩領から隣の飫肥(おび)藩領に逃げ込むという事態が生じた。
これには、実は労働力不足に悩んでいた飫肥藩がひそかに関係していたといわれている。
飫肥藩では「欠落奉行」「逃散奉行」と呼ばれる奉行職を設けて逃亡農民に対応したという。
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長々と引用してしまったが、このように酷い弾圧をされていたのかと、いまさらながら驚いた、たぬきじゃった。
キリスト教の弾圧は、日本各地で見られる。
ところが、仏教の弾圧は、明治維新の廃仏毀釈くらいしか思い当らなかった、たぬきだ。

こうして改めて見てみると、その残虐さは計り知れず、当時のこの地の門徒衆は、どんな思いをして宗教を守ってきたのだろうか。
そのことを思うだけでも居たたまれない思いがする。

さて、西本願寺鹿児島別院には、次のような案内板がある。
是非、写真を拡大して読んでみてほしい。


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浄土真宗弾圧の歴史が書き記してある。

次は、「涙石」。
これも案内板の写真を掲載しておくので、そちらの方を見てほしい。


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辛い歴史を感じる中で、別院の立派な御堂を目の当たりにし、この地の門徒の皆さんの信仰の厚さを感じた、たぬきじゃった。


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