タイ・上海(その55)

パンク修理に20分以上費やして、やっと修理を終えて外灘(ワイタン)に到着した。
外灘は、1854年に共同租界となった所で西洋風のレトロな建物が黄浦江の沿岸に立ち並んでいる。
上海といえば、この景観が有名だろう。


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外灘(ワイタン、ピンイン:Wàitān、がいたん)あるいはバンド(英語名:The Bund)は、中国・上海市中心部の黄浦区にある、上海随一の観光エリアである。黄浦江西岸を走る中山東一路沿い、全長1.1kmほどの地域を指す。

この一帯は19世紀後半から20世紀前半にかけての租界地区(上海租界)であり、当時建設された西洋式高層建築が建ち並んでいる。
租界時代の行政と経済の中心であったことから現在も官庁と銀行が多いが、ジョルジョ・アルマーニやカルティエなどの大型旗艦店や、租界時代のレトロな雰囲気を売り物にしたバーやレストランなどが建物の中に入るようになり、お洒落な街並みに変貌しつつある。

外灘は、上海の旧市街(上海県城、「城内」)の北に位置する。はじめは英国租界であり、1854年に英国・米国の両租界が合同して共同租界となった。
19世紀末から20世紀前半にかけて、東アジアにおける金融のハブとなった外灘には、建築ラッシュが訪れた。
これらの建物は、イギリス・フランス・アメリカ合衆国・ドイツ・日本・オランダ・ベルギーといった各国の銀行や、イギリスやロシアの領事館、新聞社、上海クラブやフリーメーソンのクラブなどとして使われた。
租界時代の市政府もこの場所にあった。

1940年代までには、中華民国で活動していた銀行のほとんどが外灘に本店を置いた。
国共内戦の結果共産党が勝利したことにより、金融機関は徐々に外灘から移転し、ホテルやクラブも閉鎖されて他の用途に転用された。川辺に点在していた、植民地を象徴するような像や外国人の像は撤去された。

1970年代末から1980年代初頭にかけて、中国が市場経済を導入していく過程で、外灘の建築物は次第にかつての用途で使われるようになった。
行政機関が地域外に移転し、代わりに入ったホテルや金融機関が営業を始めるようになった。また、この時期には台風による洪水も数回発生した。
地方政府は堤防を高くすることにし、道路より10m高い堤防がそびえる現在の景観が作られた。
1990年代には、中山路が拡幅工事によって最大10車線まで広がったが、かつては道路沿いに広がっていた公園用地の多くがこれによって消滅した。
またこの時期には、外灘と浦東を結んでいた渡し舟もなくなった(遊覧船は付近の埠頭で発着している)。

1990年代、上海市政府は「バンド」が指し示す範囲を拡大させ、南側(延安路以南)を「新バンド」、北側(呉淞江以北、閘北)を「北バンド」と呼ぶようにした。
「植民地主義の残滓」と社会主義イデオロギーとの関係を調整し、外灘周辺の地域の観光的な価値や地価を上昇させようと図ったのである。
もっとも、これらの呼び名は観光ガイドでもあまり使われていない。

2008年からは外灘一帯の交通の再構成が進められている。
今までバンドと延安路の合流点にそびえていた巨大な高架道路の構造物が解体され、また外白渡橋の移転と復元工事が行われる。
この復元は2009年初めには終了する予定である。
その後、現在8車線ある道路を立体化して1層4車線の2層構造にし、かつて存在した公園用地を復元する。
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