常例法座(2014.12.16)

今日は、西宗寺で今年最後の常例法座があった。

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最初に「しんじんのうた」の読誦。

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そして、「浄土真宗の生活信条」の唱和。

住職の法話は、「愚者のよろこび」について

「拝読 浄土真宗のみ教え」には、愚者のよろこびについて次のように書いてある。
阿弥陀如来は、「必ず救う、われにまかせよ」とよびかけておられる。
そのよび声を通して、確かな救いのなかにあることをよろこぶとともに、ありのままの私の姿を知らせていただく。

如来の光に照らされて見えてきた私の姿は、煩悩に満ちみちた迷いの凡夫であった。
確かなものなど何一つ持ち得ない愚かな私であったと気づかされる。

親鸞聖人は、法然聖人より、

   愚者になりて往生す

との言葉をうけたまわり、感慨をもってお手紙の中に記された。

このような私だからこそ、救わずにはおれないと、如来は限りない大悲を注いでおられる。
この深き恵みをよろこばせていただくより他はない。


私の家では、忙しい毎日を送る中で、せめて大晦日だけはと、12月31日の家族団欒の夕食の時に「我が家の重大ニュース」ということでそれぞれが話をする。
核家族と言われて久しいが、今では「孤家族」という造語までできている。
独居だけではない孤独な家族である。
食事の時に、「右手に箸、左手にスマホ」で、全く会話もないまま食事をする。
こんな光景が、現実としてあるようだ。
以前、東北では、「一本のろうそく運動」という活動がされたことがある。
それは、ろうそく一本に火を灯して、その灯りのもとでみんなで話をしながら食事をする。
そして、皆の気持ちが一つになる。
まさに、ぎすぎすとした世の中に明かりが灯る。

仏教では、「身口意の三業」ということがある。
この三業とは、身業、口業、意業のことである。
身業、口業は、人間の表面に現れるので誰でもわかるが、意業は「気持ち、心の中」だからわからない。
人間は、表面でいくら取り繕っていても心では邪まなことを思っている。
それが、私たち凡夫(愚者)の姿。
仏さまは、そんな全てを見通しておられる。
また、私たちのありのままの自分の姿を示してくださっている。
人間は、自分が愚かだと気づかないまま過ごすことが多い。
ところが、わが身を振り返ってみたとき、その愚かさに気づかされる。

そんなどうしようもない愚者である私たちを必ず救うといわれるのが、「摂取不捨の利益」である。

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どうか、皆さんが最初にお寺にお参りに来られた時のことを思い出していただき、ご家族や他の門徒さんに教えてあげていただきたい。
そうすることによって、お寺にお参りする人たちが増えていくと思う。

茶話会の後、「恩徳讃」の斉唱をして、今年最後の常例法座は終了した。



住職ノート
残り僅かになってきた今日この頃です。
でも、あまりピンとこない私です。
今日の常例法座では今年1年はどうでしたかとお尋ねしたことです。

今月後半の標語は
 「仏の恭敬 人への恭敬 それは自分への恭敬
としました。
恭敬心とは、つつしみ敬う心です。
自分という人間がいかにつみ深く至らぬものであるかが、ほんとうにわからないと、恭敬心は湧いてきませんし、念仏も口に出てきません。
仏の恭敬心がある人は、必ず他人や他物への恭敬の心もあるものです。
そして他へ恭敬心のある人は、他からも拝まれるのです。

今日、お寺に作業に来ていただいていた方が、その意味を問われ答えたことです。
今年を振り返りながら、手を合わす生活を大切にしていきたいものです。

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