中央仏教学院の思い出(NO.1)

突然こんなことを書き始めて、たぬきは何を考えているのかと思われるかもしれない。
通信教育を受講されている皆さんに少しでも役に立てばと思った。
別に、参考にならなければ捨て置いていただければいい。

今日は、3年次最後のスクーリングの「法話」の試験。
たぬきの原稿は、次のようなもの・・・

 本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし

今日は、ご讃題を高僧和讃から引かせていただきました。
このご和讃は、葬場勤行の中の添え引き和讃として唱えられています。

さて、
「本願力にあったならば、もはやいたずらに迷いの生死を過ごす人はない。
宝の海のような功徳が身に満ちみちて、私たちの煩悩の濁水も往生成仏の妨げになることはない」
といわれます。

果たして、むなしく過ぎる人生とは、いったいどういうものなのでしょうか。

私は、以前、〇〇として多くのご遺体を見てきました。
その数は、年間数百体に昇ります。
自死や病気で亡くなった方など、それこそ千差万別と言っても過言ではないくらいのご遺体に仕事を通じて接してきました。

ご遺体は、高齢者から乳幼児まで、また、老若男女を問いません。
昨日まで元気だった人が、いや、数分前まで輝くように生きていた人が、突然その命を絶たれることもあるのです。
このようにして亡くなった人を思うとき、人の命が、いかに危ういものか痛いほど感じさせられました。

そんな仕事をする中で、こんなことがありました。
ちょうど、この時期のような梅雨時分でした。
民家や商店がある程度、密集している地域の一角の民家のご主人が、半年ばかり姿が見えないということで、近所の方が家の中で亡くなっている男性と思われるご遺体を発見したのです。

ご遺体は、居間にうつ伏せで倒れた状態で、既にミイラ化しており、亡くなってから数か月以上経過していました。

解剖などもされた結果、この方には重度の循環器系の疾患があり、病死と判断されました。

それは、それで事件でなくよかったのですが、この方の家庭環境を聞いていく中で、こんなことが分かってまいりました。

実は、この亡くなった方は、以前、某大学の教授をされておりました。
在職中に最愛の奥様を亡くされ、既に成人した子供たちもおりましたが、奥様が亡くなってから、この子供たちは一切、自宅には寄り付かず、単身のまま寂しく老後を迎えたのです。
だから、子どもたちからの連絡はおろか、近所付き合いもない状態で、何十年も過ごしてきていたのです。
そして、一人寂しく、誰にも看取られることなく亡くなり、亡くなってからも長期間放置されたままだったのです。

今の核家族化や近所付き合いの希薄化の中では、そんなことは、どこでもあるような話かもしれません。
もしかしたら、私もそんな状況で死を迎えるかもしれないのです。

蓮如上人が御文章に人間の人生の無常なることを示されたうえで、
「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふることあるべからず」
と世間的な成功を求めるだけの人生のむなしさを教えておられることを思います。

先の亡くなった方の人生だけではなく、私の人生も同様に「むなしく過ぎる人生」だったかもしれません。

むなしく過ぎる人生とは、生死輪廻の世界にとどまり、出離の縁に遭うことなく終わっていく人生のことです。

本願力に出遭ったその時に、私たちの人生には、浄土へと続く人生という確かな方向性と尊い意味が与えられます。

阿弥陀如来の御はからいにより、本願を信じる身となった者の人生は、真実に裏付けられた浄土への確かな歩みとなることを、ともに喜ばせていただきましょう。

涵養は、御文章の拝読にて、本日のお取次といたします。

本日は、ようこそのお参りでした。


今思うと、恥ずかしいような5分間の法話だった。
人生色々・・・でもと思える人生でありたいものだ。

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コメント

No title

たぬきさんのご法話を読ませていただきました。お仕事もご縁のひとつだったのですね。「わたしの人生も同様にむなしく過ぎる人生だったかもしれない」の言葉にハッとさせられました。ありがとうございました。

akikoさんへ

コメントありがとうございました。
拙いことを書いてしまいました。
自分では、よかれと思って書いたことですが、本当にこれでよかったのだろうか?と・・・思います。
お恥ずかしいことです。


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