北海道(No.8)

昨日(6月13日)の報道によると、北海道では6月としては珍しい、最低気温が氷点下だったようだ。
因みに、阿寒湖畔で-1.1℃だったとか・・・
たぬきが北海道に行ったのは、5月下旬だったが、札幌は23℃くらいで汗ばむような陽気だった。

山陰では、先週梅雨入りしたのだが、毎日爽やかに晴れた日が続いている。
いい天気が続くのはいいのだが、また、今年も異常気象なのだろうかと心配しているたぬきじゃ。



それでは、北海道の続きを書くとしよう。
「博物館 網走監獄」を出発した、たぬきは、本物の?「網走刑務所」向かう。
網走刑務所まで、車で5分程度か?

網走川を隔てて、北側の川沿いに煉瓦塀に囲まれた「網走刑務所」が建っている。

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刑務所の周りは、綺麗に整備してあり、タンポポやチューリップが咲いている。

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刑務所の正門は、「博物館 網走監獄」の入口と同じ様式。
博物館の方が、レプリカだった。

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網走刑務所は、今や観光名所になっているようで、観光バスが次々とやって来ている。

網走刑務所(あばしりけいむしょ)は、法務省矯正局札幌矯正管区に属する刑務所。
犯罪傾向の進んだ者(再犯者・暴力団構成員)、執行刑期10年以下の受刑者の短期処遇を目的とする刑事施設。
日本最北端の刑務所。

耕種農業、畜産農業、林業を営む農園刑務所。
自給用を中心に馬鈴薯、南瓜、野菜類、金時豆、小豆、永年牧草、肉牛を生産している。
木工作業は小物民芸品の製作を中心とし、ニポポは年間約4,000本を生産している。
窯業作業は、オリジナル製品(三眺焼)として食器、花瓶などの小物製品を中心に生産している。

明治維新後の日本は、内乱による国事犯や政治犯が続出したため、監獄は過剰拘禁となっていた。
同時に、「富国強兵」を掲げて西洋列強と肩を並べるためやロシア帝国による脅威を防ぐためには蝦夷地(北海道)の開拓が重要であった。

そこで、1881年(明治14年)に「監獄則」改正を行って徒刑、流刑、懲役刑12年以上の者を拘禁する集治監を北海道に設置し、囚人を労働力として使役させて北海道の防衛と開拓を進める政策を執った。
また、刑を終えた後は北海道に住み着いてくれれば良いという考えもあった。

1890年(明治23年)、中央道路の開削工事を行うため、釧路集治監から網走に囚徒を大移動させて開設。
発足時の囚人数は1,392人でその3割以上が無期懲役であり、ほかの囚人も刑期12年以上の重罪人であった。
中央道路工事は、1891年(明治24年)のわずか1年間で、網走から北見峠まで約160kmが開通しており、過酷な労働条件による怪我や栄養失調が続出し、死者は200人以上となった。

1894年(明治27年)に、囚人使役は「囚人は果たして二重の刑罰を科されるべきか」と国会で追及されるまでの社会問題となり廃止されたが、民間人や外国人などによる「タコ部屋労働」は大正、昭和になっても続いた。

網走の発展は、刑務所設置に大きく関わっているが、以前は地元にとって刑務所は決して好ましいイメージではなく、戦時中には刑務所名変更の請願を網走町(当時)が提出している。
これは、衆議院を通過したものの貴族院では不採択となり、網走刑務所の名は存続することになった。

戦後、高度経済成長期になると、高倉健主演の映画『網走番外地』シリーズの人気により、網走刑務所は全国区の観光名所となった。
1983年(昭和58年)には、網走刑務所の全面改築工事に伴い、旧刑務所の教誨堂、獄舎などを移築復原した博物館網走監獄が天都山中腹に開館。
刑務所は網走市の観光にも大きく貢献している。
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しかし、たぬきの私見としては、刑務所の収容者はもとより、刑務所のすぐ側には職員の官舎もあり、刑務所職員の家族も含めて、観光客の来訪は迷惑なのかもしれない?と、そんなことを思った、たぬきじゃった。


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